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■ トキ・メッセージ3 トキの野生復帰連絡協議会(トキ連)会長・高野毅さん

親子でつむいだ佐渡とトキへの想い

たかの 

高野毅(たかの たけし)さんは、 昭和18年に旧新穂村の山中にある生椿(はえつばき)地区で生まれました。
父親である高野高治(たかじ)さん(平成9年84歳にて永眠)は、日本のトキ保護活動が始まる前から
生椿でトキと人が共生できる環境作りに努めました。
佐渡トキ保護センターが開設してトキの保護と人工増殖がはじまると、職員として勤務するかたわら
自分の棚田の一部でドジョウを育て、雪深い冬も山を越えてトキにエサを運びました。

生椿地区は平成元年に高野さんの一家が山をおりたのを最後に現在は誰も住んでいない地区となっています。
しかし、生椿地区は、トキと人の共生やトキの野生復帰活動のシンボルとして、多くの人が訪れています。
高野毅さんは生椿にある田んぼを今でも耕作しつづけ、様々な団体やボランティアの方を受け入れて、
生椿の歴史の紹介や環境の復元・整備に努めています。
また、トキの野生復帰連絡協議会の会長として、トキ交流会館で「トキの先生」として子どもたちに話をしたり、
一緒にビオトープづくりをしています。
今回は高野毅さんに生椿を拠点にトキの野生復帰に関わり続ける思いと
トキの野生復帰にむけてこれから必要なことをお話しいただきます。

●故郷「生椿」集落
私の生まれ育った新穂地区生椿は戦国時代開墾され、約340年の歴史があります。
生椿は、新穂地区にある「島」集落から分かれてできた集落です。島は集落内で家族の戸数を増やすことはできない
土地条件の厳しい集落でした。島集落をはなれた先祖たちは新しい土地をもとめ、土地を取りしまる役人の目をかいくぐって
わずかずつ山を削り、田畑を開いて生椿が誕生しました。
小さい社会ながらみんなが仲の良い関係を築いてその後生椿は長く歴史を積み重ねました。
家族を守るために生椿に住みついた祖先はわれわれの誇りで、歴史の重さを感じています。

●人もトキも、生きるものすべてを大切にした父・ 高野高治
生椿で生まれた私の父・高野高治は、幼い頃からトキや多くの動植物たちとともに生活しました。昭和6年に父は生椿の
自分の田んぼに27羽のトキが降りているのを見ました。それはまるであたり一面にボタンの花が咲いたように美しかったそうです。 そのすばらしい情景を子どもたちや多くの人に残したいとトキに関わるようになりました。

トキがよくとまっていた木
(生椿:トキがよくとまっていた木)

父・高治の時代はす でに近代化によって佐渡の環境も社会も着実にかわり始めていました。
昭和の始めには生椿はわずか5戸になっていました。
しかし父は生椿で子ども達に農薬の危険のない安全な食べ物を食べさせたい。そして
生椿の家々みんなで豊かに暮らしていきたいという思と、トキへの配慮を忘れることがありませんでした。

そこで高治は貧しい生椿集落で牛や羊を飼って育てることを思いつきました。牛は農作業を楽にし、フンはたい肥になります。
羊からは羊毛とミルクが、子牛は売ることもできます。少しでも豊かになれば、とはじめましたが、
最初はなかなか受け入れられませんでした。新しいことをはじめるのは、いつの時代も大変です。
しかし、少しずつ理解され、家畜を飼って質のいい農産物をつくる集落となっていきました。

高治は、人だけでなく、トキにも住みやすい生椿を思い、
自分の田んぼの一部をトキのえさ場にしてたくさんの生き物が住めるような環境をつくりました。
この高治のトキを思う行動も、集落や回りの人達にとっては新しいことであり、なかなか受け入れられず、人によっては
「トキを利用した売名行為だ」と言う人もいました。しかし、父は実践を続け、
トキは昭和34年頃から昭和40年代にしばらく生息数を回復しました。

昭和42年に佐渡トキ保護センターが開設すると高治は佐渡の中でトキを保全する活動をしていたことから勤めを命ぜられました。
高治は生椿からトキのいる清水平までのひと山を、トキのエサであるどじょうを運ぶためにセンターを毎日往復しました。

●自分の故郷の生活にあった大切なもの
私は18歳の時に佐渡を出ました。そのころは私も若く、父が現役で働いていたこともあって佐渡に帰ろうとは考えませんでした。
24歳で佐渡へ帰って農協に勤めたころには生椿は私たち高野家一戸だけが住んでいました。
そのころ全国の人がトキをめぐる動向に注目を集めるようになりました。
私は父を始め、これまで一生懸命トキの保護活動をしてきた人を見てきました。
トキという種の保存のことばかりに関心が高まっていますが、そのトキ保護の活動の背景にはこれまでに活動をした人たちの
純朴な気持ちや、活動する中には葛藤があったことを伝えたいと思いました。

父・高野高治のトキや自然への思いを育んだのは長年続いてきた生椿の社会です。生椿に育まれた風土と
家族の愛情や地域の絆に満ちた環境が高治の心を育てたのだと思います。
私は幼いころの家族や地域の愛情に満ちた故郷に想いをはせることがありましたが、殺伐とした戦争やその後の心のゆとりのない社会を経験して、 そのかけがえのなさを痛切に感じました。
私は高治から過去のことや父自身のことを聞いて記録をとりました。書きとめるだけでなく直接多くの人たちに伝えたい、 多くの生きものが人と一緒に暮らす環境をつくる活動も高治の代で終わることなく後世に残していきたいと思いました。
そうして自分の暮らしていた生椿で意思と活動を伝える場をつくっていこうと決心しました。

ビオトープ 
(生椿のビオトープ)

●自分ができることをやるのでいい
生きものと人が一緒に暮らす環境といっても、昔の生活に戻すことが目標ではありません。
今の時代に生きる私たちが昔の生活を受け入れるのはむずかしいことです。生活のすべてを昔のようにすることはできなくても
ひとつやふたつだったらできると思います。そのひとつやふたつを始めてみることが大切です。
私もみなさんに過去や理念だけを話すつもりはありません。私も実践します。それを一緒に取り組んでほしいと思います。
自分の体を通して感じることが一番大切だからです。

今の社会は個人の生活の効率がよくなり日本全体の生活レベルも昔にくらべて高くなりました。
そんな今の社会だからこそ昔にくらべて時間や力の余裕があります。
その力を自分の周りの地域や、社会に貢献するように使ったらいいと思うのです。自分にできる何かをだれでも
ひとつやふたつ持っているはずです。それをどう使うかが今の社会をより良いものに変えていくカギだと思います。

●トキに学んだことを子ども達に伝えたい
私がトキの野生復帰の活動にできる限りの時間と、私財を使って取り組むことを「そこまでしなくても」と言う人もいます。
しかし、豊かな里山をトキが舞ってみんなが共生する佐渡を実現するための推進と活動の足をとめる気はおこりません。
それは私の夢だからです。

私が幼い日の日常の風景のことです。
夕方に遊び終えた集落の子どもたちの頭の上をエサを食べてお腹をいっぱいにしたトキが飛んでいきました。
子ども達が「トキさんさようなら~」と騒ぐとトキが「カァオーン・カァオーン」と答えるように鳴くのです。
トキとしては怖かったのかもしれませんが、子どもたちにすれば
「俺たちが暖かく見守っていっぱいご飯を食わしてやったからうれしがってるんだなぁ」と思うのです。
そのトキの帰り姿を見るうち、幼心にも自分達でトキを守っていかなくてはと思うようになりました。
その純粋で純朴な心をもつ子ども達に伝えるのが一番大切なことだと思っています。
「子ども達に教えたい」そこに私の仕事の原点があります。

里山づくりを取り組んできた中で「またこの次も来るっちゃ」と、人と人とがつながって活動の輪が広がるなかで、
親子が一緒に再び手伝いにきてくれたりすることが励みになってきました。
そんなときは私のやってきたことは間違いなかったんだなと感じます。たとえ一人も来なくても、いつか来てくれると
信じて活動しています。

活動の原点は、先人達の自然と共生する地域社会の再生に活動した想いと、父・高治の意思を受け継ぎ
後世に語り継ぐことが私の使命であると信じ活動をしています。
「一緒ににやらせてくれえ」といって来る人は一人だろうと誰であろうとすべて受け入れています。

高野にっこり

(続く)

[ 掲載日 2007年06月06日 | 読みもの ▼ひとつ前へ戻る ▲ひとつ次へ進む ]